弓道部復活4年間
戦前の弓道部は全国制覇の常連であり、学院運動部の中でも重鎮であった様ですが、
我々が入学した時は敗戦の武道廃止による空白時代に終止符をうち、弓道部が復活した年でありました。
いわゆる、我々は弓道部の戦後派であります。戦前の輝かしい戦績に較べ、復活当初、部員数わずか十七〜十八名、
戦前の道場は拳法部に占領され、青空道場でゼロからのスタートでありました。
部員一同は早く全国優勝を成し遂げ、戦前の輝かしい成績に少しでも近づきたいという一念で、旧道場がありながら、
それを背にして、終戦後の焼け跡さながら、ツルハシ、スコップの整地が初まり、あづちを作りました。しかし射位は青空、
雨が降れば練習が出来ないと言った有様でした。
この様な苦労を一つの目標に向かい、一年生から四年生もで同じ苦労を重ね、チームワークは非常に堅かったと思います。
しかし、スタート直後の事であり、技量の方はほとんどが初めて弓を持ったという連中であり、しかも部の復活が他校に遅れをとっていた為、
発足当初の三十、三十一年度は、負け戦の悲哀を暫く味あわされました。
その後は猛練習の成果あり、
○三十二年春季リーグ戦 二部優勝
○三十二年秋季リーグ戦 一部準優勝、四勝一敗
○三十三年春季オープン戦 五戦全勝
本年よりリーグ戦、秋年一回となる。
○三十三年秋季リーグ戦 全勝優勝
○三十三年全日本学生王座決定戦
関学 109中
早稲田 135中
愛知大 69中
○三十三年東西対抗
東軍 167中
西軍 130中
山本(欽)、城所、巽、藤井の四名が出場と順調な成長(勿論下がりようがありませんが)を遂げました。
関西では無敵の地位を確固たるものにしましたが、未だ全国制覇をするには、今一歩力不足でした。
しかし我々が卒業した三十四年度に、全日本学生選手権で念願の全国優勝の偉業を後輩が成し遂げてくれました。我々が在学時代に
はたせなかった夢を果たしてくれました。概略以上の様な経過で、戦後の再スタートの基礎を築いたという充実感、
満足感があります。
我々三十四年度卒業生は、三十三年度の先輩また、部復活の苦労を共にした先輩と共に、大いに誇りとする処です。
苦難を重ね苦労をした反面、我々は創造の楽しみを味わい、幸せな、愉快な弓道部生活を送れました。
初めから強チームを率い、良い成績を維持するのと違い、また変わった何物にも変えられぬ、かけがえのないものです。
この成長期の4年間には色々な出来事がありました。合宿生活の苦しかった事、楽しかった事、全日本学生選手権大会出場の歩み(以下全日と略す)等、色色ありますが、
それぞれが一つの転機になっており、大きな節となっています。その節を一つ一つ順を追って記してみたいと思います。
○三十一年度
合宿、最初の合宿は神戸高取山道場で行い、神沢先生にお教え頂きました。宿舎は山頂近くの茶店でしたが、
電灯もなく日没になると就寝という門限等を決める必要もなく、その後の合宿とは大変な違いです。全く模範的な合宿でした。
全日本 埼玉県大宮市で行われ、戦後の初参加でしたが、オリンピック精神の「参加することに意義がある。」時代でした。
圧倒されるどころでなく、ただ茫然とするのみでした。
この大会では早稲田の大野氏と関西大の山本氏の優勝決定戦の死闘は長く学生弓史に残る戦いであり、大変強い印象でした。
二次予選後、二十射以上の競射を行い、早稲田の大野氏の二年連続優勝で山本氏が無念の涙で関西勢としても非常に残念でした。
弓道大会では、他のスポーツの相手があり、相対的なものと違い、的を相手とする己との戦いであり、唯一犯したミスで終わです。
同等のレベルの場合、運が大きく左右する。特に全日本という大きな大会では尚更である。しかも連続優勝は不可能とされていたが、
これを軽く成し遂げたという事実に直面し何事も努力次第だということを肝に銘じたのです。
○三十二年度
合宿、松山城内の初の遠征合宿。
四国といえども三月の事、着いたとたん何十年降りという雪で寒いこと寒いこと、合宿先では、何か変わった記憶に残る出来事が起こります。
寝床は道場の板の間、貸し布団にくるまり毎晩ふるえ上がりました。当合宿では、愛媛県弓連の一色先生にお教えを頂きましたが、規律正しい練習で
関学弓道部の名を高めました。
帰途山口大学へ遠征、練習試合にて快勝し、地方勢には問題なく優位を保つ処までに成長致しました。しかし、まだ半矢を出すのに汲々としている状態で半矢を目標としておりました。
この年大きな節として特筆大書すべきは、寺内監督の就任であります。建設途上の弓道部にとり、打って付けの監督であり、寺内監督の力で基礎は固まった。若い先生であり、同じ世代の
考えに立ち、弓だけでなく、私生活までよき相談相手となり、喜びも悲しみも共に過ごした間柄であり、先生というよりは、兄貴と言う親密感がありました。
皆、技術的な事は勿論、弓、矢等の手入れに夜遅いのも構わずに家に押し掛けたものです。幸い職業もサービス業であり、比較的時間の余裕もあった為、学院道場、王子道場は勿論、
リーグ戦の試合、翌年の博多合宿では全期間の約半月間一緒に参加頂いた。練習においては予科練仕込みの厳しい練習、王子道場での故事、作法の教育「一射必中」をスローガンにした
猛練習でした。半矢、八十中というボーダーラインは大体、出せる様になり一つの区切りが出来ました。
○三十三年度
山本(始)主将をトップにした我々学年の最終シーズンであり思いで深いシーズンでした。
春の博多合宿に始まり、三島神社での全日本、関西一部リーグ優勝、王座決定戦等、内容深い年でした。
この年よりリーグ戦は秋一回になったが、関西一部リーグの同じメンバーとオープン戦を行い、全勝の成績で
実質上の春の優勝を成し遂げスタートを飾りました。
全日本、この勢いで三島の全日本に乗り込んだが、未だ関東勢に対するには力不足、後の早、慶、中、日大等の定期戦は
関東の力の弓に圧倒されガタガタにされてしまいました。前回は圧倒されるところまでは行っておらず、今回は圧倒を
感じるところまで成長しておりました。
しかし、関東の力の弓が強烈な印象でした。今大会遠征後は従来の射型にプラス今大会にて身体で覚えた、関東流の力の弓を
取り入れた練習を我々大会出場者が率先垂範して行い、部員の浸透をはかりました。
それに加えて、寺内監督の練習は益々きつくなり、目標は一立(四人)半矢の八中を十中に置き換え、その日その日の最後の練習は
十中のノルマを達成できるまで続けられました。このように100中達成に的をしぼった練習を行った成果として、秋のリーグ戦は
念願のリーグ全勝優勝を果たし、最後の対同大戦に109中と100のラインをオーバー、全て当初の目標を達成しました。
数日後の関西大定期戦には、関西制覇の余勢をかり、118中という好成績で快勝、対戦成績を二勝二敗のタイに持ち込んだ。最終目標の
王座決定戦は東と西の中間、豊橋にて行い、初出場におじけず奮闘致しましたが、前半の不振がたたり、109中にとどまり残念ながら
王座には就くことができませんでした。
しかし早大との実力差は認めざるを得なく、ガッチリと早大に歯車を合わせ、後半の追い込みは早大とほぼ対等に試合を進めるまでに成長して
おり、一歩一歩力強く前進しているのを肌で感じたのは私一人でなく、皆同じ頼もしく感じ取ったことと思います。
早く現役の諸君に王座決定戦で御恩返しをしてもらいたいものです。
◎参考までに三十三年度のリーグ戦績を記す。
春季オープン戦 五戦全勝
対 立命大 74-93 勝
対 天理大 76-88 勝
対 同志社 89-94 勝
対 大市大 79-105勝
対 関大 81-82 勝
秋季リーグ戦
対 立命大 87-88 勝
対 関大 84-92 勝
対 天理大 81-87 勝
対 大市大 70-90 勝
対 同志社 85-109勝
関関定期戦 勝 二勝二敗
118-92
「関西学院弓道部五十周年記念誌」 藤井泰三(昭和34年卒)より
historyにもどる
このホームページは関西学院弓道部が提供しています。
但し、掲載内容の無断転載を禁じます。