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本多流流祖 本多利実 翁

関西学院と本多流
関西学院弓道部の射法は正面に打ち起こし、大三を取る本多流の射法です。これは大正末期 名誉師範であり日置流石堂竹林派の印可を得た小澤 O先生が、弓は正面に打ち起こし大三 を取るのが正しいとの説をたて、関西学院弓道部の射法を定めたものです。その後、昭和の 初め、東京巣鴨にあった本多流本部道場でて関学は本多流学校会員として入門をします。 名実ともに、本多流の一門として関西学院弓道部が本多流に名前を連ねたということになり ます。現在においてもスタッフ・現役の関学弓道部全員が本多流の弓を追い求めています。



本多流研修
関学では毎年、スタッフ、3年生と4年生の幹部が関東方面に出向いて
本多流の弓の研修に行きます。この写真はその一コマで、埼玉県久喜市
にある、高木洗心洞での研修風景です。2005年は大宮市での洗心弓
友射会、そして渋谷スポーツセンターで実施された本多流(財)生弓会
の研修会に参加しました。こうして、技量を高めた上級生が下級生の弓
のアドバイスをします。                   以上

脇正面をバックに参加者記念撮影   洗心洞稽古風景      群馬県館林市で楽しく懇親会




小沢 Oの弓道理念


小沢 Oは「正面打ち起こしが正しい、弓は流派に拘らず射る可きもの」*1 として、的前射法としては流派の如何に関わらず正面に打ち起こし、大三を取る 射法が正しいとし、自己が修めた日置流石堂竹林派を含む斜面打ち起こしの射 法に対する拘りを一切払拭している。

これは、本多利実翁のもとに、当時の弓界の俊英の多くが教えを請いにその門 に参集した如く、小沢も体育的・儀礼的な観点から見て、実利の射法であ る斜面打ち起こし射法から、さらに進んで正面に打ち起こし大三を取るという 本多流の射法が、これからの時代における新しい弓道の姿としてふさわしい ものであるという確信に達したからではないかと考えられる。日置弾正以来の弓 術の規矩から一大革新を起こした本多流の射法*2 と理念は、関西学院の体育教官として日々学生の体育教育に携わり、弓道のみ ならず柔道・剣道を嗜む武道家*3 であった小沢の教育理念・弓道観そして武道観に大きな影響を与え、その識見 を新たなものとしていったと言えるであろう。

ただ、ここで留意しなければならないのは、小沢が「弓は流派に拘らず射る可きもの」 として長い年月によって培われてきた日置流弓術や流派を否定しているもので あると誤解してはならないという点である。それは、小沢自身が「弓道講座」 (雄山閣刊)において竹林派弓術の目録の書ともいうべき射知要法を解説して いる事においても示されるように、あくまでも小沢は先達が育んで来た弓術の 伝統を継承し根幹としながら、現代に相応しい弓を追求する姿勢を保っていったという 事である。それは、射学を自身の研究のテーマとし、中国弓術の古典書である 「武経射学正宗」の翻訳をライフワークとしている事や、正月や祝いの日に、 石堂竹林の引目や天地払いを竹林派の古式に則って披露していた事実、*4 その弟子に与えた免状*5 は日置流石堂竹林派の名のもとに允許しているなどの、小沢自身の行動において、 弓術の伝統や流派を否定するものではないことが明らかであると言える。

小沢 Oは弓術宗家として古来の伝統を継承していくとともに、教育者としての 高邁な識見により、学生の教育的効果を踏まえ、明治・大正の当時としては革新的 であった正面打起の射法に当時の学生達とともに取り組んでいったのである。


関西学院と本多流

小沢は若くから弓を嗜み、関西に移って後の大正元年より大正13年まで岡内  木範士に師事*6し、この期間に日置流石堂竹林派の印可を受けている。当時の関学の 部員も同様に武徳会に入門し小沢とともに岡内範士の教えを受けている。*7小沢は大正 13年には武徳会の弓道教士を允許され、大正14年には当時の摂政宮(後の昭和天皇) の御前にて台覧演武を行っている。大正後年から昭和前年の部員の述懐によると このころに正面打ち起こしが正しいとの説を立てたとのことであるから、これまで の小沢と関西学院は斜面打ち起こしであったようである。

大正末から昭和にかけて、小沢は武徳会や学生弓道での活動を通じて、大正12年に本多流 二世を継承した本多利時宗家や帝大弓術部をはじめとする学生弓道の指導者との交流が 篤くなってきたようであり、昭和5年には日本学生弓道連盟が結成され、その関西支部長*8に 小沢は推戴されている。その中で関西学院の部員も小沢に指導を受けながら積極的に正面に打ち起こし大三をとる 本多流の射法に取り組むことになったようである。(若き日の小沢が本多利実翁に直に教え を受け、正面打ち起こしに取り組んだという逸話もあるが、大正6年に本多利実翁は他界し ているので、もしそうだとするならば関西学院に着院する以前の明治後半から大正にかけての ことになるであろう。) 関学弓道部の東都遠征の際には本多流本部道場を拠点として東都の大学との試合を行っている。 当時の部員の回顧には、本部道場における本多利時宗家の射前に拝見し感嘆したとの思い出や、 合宿生活の楽しい思い出や、その際に本多流に入門したとの記録が見られる。*9

その後、関西学院弓道部は戦争により活動停止に至るが、戦後の復活に際しては、 小沢に学生時代指導を受けたOBの神沢周吉を師範に、その後、神沢の推挙により小沢の 一番若い弟子である寺内弘氏を監督として招請することになる。(小沢も関西学院の弓道部 名誉師範となる。)昭和40年に小沢は静岡県において没することになるが、その後も小沢の 指導を受けた人々が遺志を受け継いでいくことになる。寺内氏の後を受けて、清水 潔 (元大阪府弓道連盟会長)が監督をとなり、古塚 緩(範士八段)が師範に就任、その後も これを弼ける形でこれも小沢の指導を受けた千田貞之が関学弓道部の指導に監督・師範代 として携わる、そして現在では、現監督の師でもある本多流 山本実(号 弼石)師範代の 直接の指導を夏・春の合宿など受けながら、関西学院の本多流による射術を研鑽している。


関西学院弓道部監督 尾喜義久 記


<参考資料・解説>
*1 「50年の歩み」関西学院大学体育会弓道部編 昭和3年卒 大島武夫
*2 正面に打ち起こし大三を取る射法は本多流のものである。斉藤直芳氏の著書「弓道講座」雄山閣刊などの資料によると、小笠原流においては正面に”打ち上げ”(打ち起こしとは呼ばない)、「大三はためらうが ごとく取る」というのがその射法である。
*3 小沢 Oは関西学院就任後、弓道部とともに柔道部・剣道部の師範を務めている。
*4 関西学院大学体育会弓道部「70周年記念誌」 昭和14年卒 千田貞之
*5 寺内 弘氏に与えた印可状による。
*6 小沢 O自筆メモによる。
*7 「50年の歩み」関西学院大学体育会弓道部編 大正11年卒 川崎金一
*8 学校弓道の現況 本多利時 「弓道講座」雄山閣刊
*9 「50年の歩み」関西学院大学体育会弓道部編 昭和12年卒 筧 真一
   関西学院大学体育会弓道部「70周年記念誌」 昭和14年卒 千田貞之
     財団法人生弓会 会報:本多流の学校会員として関西の大学では唯一関西学院大学の名前をみることができる。

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(この写真は本多流宗家の御了解を得て掲載しています。)
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