小沢 O先生


小沢 先生 略歴

明治5 年(1872)  8月9日   麻機北清水川(静岡県)で誕生(幼名 直次郎)
明治29年(1896)  3月      東洋学院卒業
明治34年(1901) 12月      日本体育会体操学校高等科卒業
明治36年(1903)  4月      福島県立相馬中学教師
明治39年(1906)  4月      明治学院普通部教師
明治41年(1908)  4月   桃山学院中学校教師
大正元年(1912) 10月      岡内 木(おかうちこだち)範士に入門
大正6 年(1917)  4月      関西学院高商教授兼事務長
                     関西学院弓道部、剣道部、柔道部師範となる。
大正13年(1924)  5月      大日本武徳会弓道教士
大正14年(1925)  5月      摂政宮(昭和天皇)大覧演武
大正15年(1926)  3月      大日本武徳会兵庫支部名誉教士
                     姫路高等学校弓道講師
昭和2 年(1927)  7月      武経射学正宗 同指迷集 発刊
昭和5 年(1930)  4月      神戸高等商船学校(現 神戸商船大学)弓道師範
昭和8 年(1933)  5月      大日本武徳会弓道範士、大谷大学弓道師範
                     京都帝国大学(現 京都大学)弓道部師範
昭和11年(1936)  3月      浪速高等学校(現 大阪大学)弓道師範
          6月      和歌山高商(現 和歌山大学)弓道師範
昭和13年(1938)  4月      聖心女学院弓道師範
                     京都帝国大学(現 京都大学)弓道部名誉師範
昭和14年(1939)  4月      神戸第一中学校弓道師範
昭和15年(1940)  5月      大阪帝国大学(現 大阪大学)弓道師範
昭和16年(1941)  5月      甲南高等学校(現 甲南大学)弓道師範
昭和21年(1946)  5月      安部郡大川村日向(静岡県)へ移住
昭和31年(1956)  5月      全日本弓道連盟弓道範士八段
昭和38年(1963)  5月      全日本弓道連盟弓道範士九段
昭和40年(1965)  3月17日  逝去(94歳)
以上のほか、
 企業などでは日本生命、三井物産、三井倉庫、川西航空、日本石油、大阪ガス、 住友伸鋼所、大丸、大日海運、阪急百貨店、大阪府警
 学校は桃山学院、甲南女子大学、灘中学、神港中学、独逸協会中学で指導。

著書として、
 武経射学正宗・射学指迷集訳解合本・全(昭和2年7月)廣道館
 武経射学正宗射学指迷集及同訳解(昭和5年3月)大日本弓道会
 弓道の話 附射法図解(昭和5年11月)神津弓道会(松島 赳共著)
 射知要法解説、射形(昭和13年3月)雄山閣 弓道講座収蔵
 武経射学正宗講義(昭和13年11月・昭和14年1月)雄山閣 弓道講座収蔵

小沢先生と関学弓道


   大正6年に小沢が高商の教授として就任し、同年に弓道部も運動部への加入が認められ、正式に関西学院弓道部がスタートすることになる。小沢は若くより弓道を嗜み、大正元年には日置流石堂竹林派宗家の岡内 木範士に師事し、まもなく免許の印可を得ている。

一方で、小沢は師範として多くの大学・高校の学生の指導にあたっているが、本多流流祖である本多利実翁の「健康の上からも、体育上にも正面打ち起こしがいい」との理念に共感し、以後、正面に打ち起こし大三を取る本多流の射法に取り組んだ。(別項 小沢 Oの弓道理念 参照)

『原田の森の道場は広い板敷で小的十二ヶ置かれる広さでした。小生が入部した頃は好調時代で、堺、剣持、河上、佐藤、小山、江口さん等の外大勢部員がいまして神沢先生や沢野さんが時々来られ、小沢先生が大変熱心な方で正面打起が正しいとの説を立てられ、流派に拘らず弓は射る可きものと申され気軽に矢取りを挑戦され、仲々お先へと帰ることができませんでした。』

大島武夫(昭和三年卒)「関西学院弓道部50年誌」より

このように、斯界の大物の案内を受けた小沢のもと関西学院弓道部は急速に力を付けていくことになる。 その小沢の指導について、当時の部員は次のように語っている。

『・・・先生のお人柄は人の知るところであるが、謹厳でいて柔和な姿を道場に現された。人を咎めず、諫めず、しかも人自ら戒むという格式が先生にはあったが、これが学院弓道部の基本精神になっていたのかもしれない。先生は「技」について兎角の批評をされたことがない。お訓えになるのは「正しい」弓道であり「正しい」姿勢であり「正しい」射であった。その後の弓道部を知らないが、この伝統が部の精神として何時までも継承されていくことを願いたい。』

中園安四郎(昭和六年卒)「関西学院弓道部50年誌」より


審固満分


小沢は昭和2年に「武経射学正宗・同指迷集」訳著 に携わっている。この書は中国弓術の文献の基礎資料として弓界において非常に重要なものであり、後に戦前の 射学の集大成書といわれる「弓道講座」(雄山閣発刊 小笠原清道・小山松吉編集)にも収録されている。
(小沢は武徳会 小笠原清道範士とも親交が篤く、同書の初版本では小笠原範士に跡部定次郎博士とともに揮毫を頂戴している。)
また、書道家でもあった小沢は、射学正宗の中にも示される「審」の字を好んでその書に記している。 「審固満分」「平正(静)審固」などである。「審」は射学正宗では「狙い」を意味する。また、「ものごとをつまびらかにする、あきらかにする」という意味でもある。 「射経」には「審固満分」と題して、以下のように記される。
ケ鍾曰く、「射法 多大なりと雖も、要は審・固・満・分の四字に過ぎざるのみ」。弓を持つには固ならんと欲し、 弓を開くには満ならんと欲し、的を視るには審ならんと欲し、矢を発つには分ならんと欲す。鏃を知るは、満の象 なり。しこうして審ますます精なり。臂力は固の徴なり。しこうして分初めて斉し。射に臂力・鏃を知るの工夫あれば、 命中せざるなし。(後略)
さまざまな流派があるなかで、射の根本は審固満分であるとの、小澤 Oの結論なのかもしれない。

慶応義塾 桂義郎先生と(慶応義塾にて)

心の弓

”弓を見よ
心の弓を射よ
汝弓に成れ”


戸田泰弘(S37年卒)回想 小沢先生の言葉「関西学院弓道部50周年誌」

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