早稲田大学との定期戦
関西学院はたびたび東都遠征を行いましたが、常に当時無敵と謳われた早稲田大学が
関西学院の前に立ちはだかりました。
この当時の試合の情景を千田貞之(現 師範代 昭和14年卒)は次の様に語っています。
「関西に於いては絶えず優勝致しておりました。定期戦としては早稲田大学が主でしたが、
戦績は不調で後に昭和十六年頃に快勝したと聞いております。引き続き戦局たけなわとなり、
定期戦は中止されました。早稲田大学との試合は現在とは一風変わっており、自分の立順に
なっても気分が充実して来ないと、射位に正座したまま動かず腕を組んで、沈思黙考する有様
で、それを味方四人、相手方四人の八人が各々やるので、時間が掛かること甚だしく、
試合終了が夜の八時、十時になる事もありました。かくの如く第一日目は八人二十射の源平戦
ですが、第二日目は射抜きで試合前に立順の交換があり、広い道場に一人ずつ二人で射抜きを
やるわけです。前日の試合に二十射十九中した様な猛者が先鋒で来られるとなかなか苦戦でした。
このように第一日目と第二日目の戦績で勝負がつかないと、八寸的で決勝を行うわけです。
そして試合終了の翌日は懇親会で東京の場合は目黒の雅叙園で関西の場合は宝塚ホテル、
或いは宝塚の歌劇を見物したり、全く良き古き時代であったわけです。
「創部50周年記念誌」より
また早稲田大学弓道部100年誌にも次のような記述がみられる。
関西遠征(昭和4年6月)
○神戸
遠征最終地神戸に来る、宿は駅前の千秋楼、近くに湊川神社あり。
(11日 神戸商大戦、勝つ)宿の晩飯をさけて三ツ輪といふ当地一流のすき焼き屋にて日本一のすき焼きを食ふ、
一同食欲盛んなり、卵を割ること数十、大いに精気を養ふ、明日の試合は遠征最後の決戦にして又関西随一の曲者なり、
皆大いに自重するところあり。
(12日 対関西学院戦 勝つ)
「早稲田大学弓道部100年誌 〜早稲田大学弓道部の歩み〜」より
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